年の瀬の気づき ~ 「鼓ヶ滝」に学ぶ
先日、知人に誘われて吉祥寺の落語会に出掛けてきました。会場はこぢんまりとした公民館で、高座に上がる噺家さんの息遣いまで伝わるほどの距離感です。この日の演目のひとつが、古典落語の「鼓ヶ滝(つづみがたき)」でした。
「鼓ヶ滝」は、摂津国(現在の大阪府と兵庫県の一部)にある歌の名所として知られる滝の名前です。噺は、その地を若き西行法師(百人一首でも名高い歌人)が訪れる場面から始まります。
すでに一端の歌人として自負のあった西行は、鼓ヶ滝を前に一首詠み、我ながら上出来だと満足します。しかし、泊めてもらった山里の老夫婦と孫娘にその歌を披露すると、意外にも手厳しい批評を受けてしまいます。天狗になっていた鼻を見事にへし折られた西行は、自らの未熟さに気づき、初心に立ち返って修行し直す決意を固めます。ところが、その三人の正体は実は和歌の神の化身で、慢心した西行を戒めるために姿を現したのでした。
落語会でこの噺を聴きながら、私は「人間の成長」とはまさにこういうものなのだろうと考えていました。
西行ほどの歌人であっても、「これで完璧だ」と思った瞬間に成長の歩みが止まってしまいました。学びも同じで、生徒の皆さんが授業や活動の中で「もう分かった」「これくらいで十分だ」と思った途端、そこで前進が止まってしまいます。けれども、もう一歩踏み込むことで、思いがけない発見や広がりが待っているのかもしれません。
そして、このことは私たち大人にも当てはまります。西行が素朴な人々(実は神さま)から歌を直されたように、私たち教師も生徒たちから多くを学びます。武蔵野祭での発表、部活動での挑戦、日常の小さな気遣い——その一つひとつが、私たち大人に新しい視点をもたらしてくれました。「鼓ヶ滝」の西行のように、経験や知識に安住せず、生徒たちの声に耳を澄ませることこそが、教育の本質だとあらためて感じます。
西行は鼓ヶ滝で神さまたちに出会いましたが、私たちが出会うのは、生徒の皆さんという“日替わりの神さま”です。日々少しずつ姿を変えながら、こちらの思い込みをほどよく揺さぶってくれる存在です。そう考えると、教室というのは、実は高座よりもずっとワクワクする場所なのかもしれません。
さて、今年も残すところわずかとなりました。どうか皆さんが、日々の中にある小さな「気づき」や「学び」を大切にし、来年への確かな一歩につなげてくれることを願っています。そして私自身も、西行にならって鼻を高くしすぎず、ほどよくへし折られながら精進していきたいと思います。
本年も、本校の教育活動への温かいご理解とご協力を賜り、心より御礼申し上げます。皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。