「啐啄の機」 No.12(2022年4月8日)

2022.04.08

昨日(4月7日)は本校の入学式でした。今回の「啐啄の機」では、入学式で新入生(中学一年生)に贈った式辞を一部抜粋してご紹介します。

「学ぶ」ということ ~ 入学式での式辞より

皆さんがこれから本校での生活を始めるにあたって、ここで一つお伝えしたいことがあります。それは、「学ぶ」ということの意味についてです。

皆さんはこれまで志望校に合格するために、受験勉強をしてきました。そして、今こうしてその目的を達成しました。けれども、皆さんは、受験に合格すれば、もう勉強する必要は無い、とは思っていないはずです。言うまでもなく、これからも皆さんは学び続けなければなりません。それでは、「学ぶ」というのはどういうことなのでしょうか。

学ぶこと、知ることは、成長し、世界を広げることです。人は、ほんの幼い頃は、目の届く範囲、手で触れられる範囲が世界のすべてでした。それが、成長するにつれてだんだんと自分の世界が広がり、今では、人類は直接目で見ることの出来ないところ、例えば素粒子などのミクロの世界や、宇宙の果てといったマクロの世界まで、その世界を広げています。つまり、学ぶことは、自分の世界を広げることです。

相対性理論を提唱したドイツの物理学者、アルベルト・アインシュタインは、学ぶということについて次のように述べています。

「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる。」

繰り返しますが、学ぶということは、自分の世界を広げることです。そして、二十世紀最高の物理学者と称えられたアインシュタインでさえ、「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。」と述べるほど、自然界は無限に広いのです。そして、その無限の広さに気づくことで、「より一層学びたくなる。」というように、知的好奇心が喚起され、永遠に学び続けることができるのです。

けれども、その一方で、学ぶこと、知ることは、つらいことでもあります。何も知らないほうが幸せだったという残酷なことも、世の中にはあるのは事実です。

皆さんの生きている時代、すなわち現代ではさまざまなことが起きています。感染症が世界を席巻し、ウクライナでは戦争が起こっています。

このたびの新型コロナウイルス感染症の流行により、これまでに全世界で多くの方が亡くなりました。そして、今でもその数は増え続けています。けれども、私たちが感染者数や犠牲になった方の人数だけに注目しているのなら、それは単なる情報であり、学びとは言えません。犠牲になった方々、その一人ひとりの人生が奪われたことによる無念さや、さらには、感染症によって大切な人を奪われ、悲しみに暮れている人がいるということに思いを馳せてこそ、はじめて学びが意味を持ちます。

また、ウクライナで戦争が起こっていることは、皆さんも知っていることでしょう。けれども、そうした事実を知っている一方で、我々は、戦争で家を焼かれた人たちの苦しみや、家族を亡くした人の悲しみに、思いを巡らせているでしょうか。

知識として「知っている」だけでは、私たちは本当の意味で学んだこと、理解したことにはなりません。学ぶというのは、単にその事実を知ることではありません。事実を知る、ということと、その事実の示す意味を理解する、ということは、まったく別のことです。

学ぶということは、喜びでもあれば、悲しみを伴うこともあります。そして、そのような人間の感情と結びつくことで、つまり、共感を伴うことによって、初めて「学び」は意味を持つのです。

新入生の皆さん、皆さんにとっての、この東京電機大学中学校・高等学校での学びが、ぜひ共感を伴うものであってほしいと願っています。共感を伴う学びこそが、皆さんの世界を広げ、必ずや皆さんの成長に寄与するであろうと信じています。

入学式の様子

正門のソメイヨシノ


このたび無事に新入生を迎え、新たな一年をスタートすることができたのは、教職員一同にとってなによりの慶びです。今後とも東京電機大学中学校・高等学校へのご支援をお願い申し上げます。