「啐啄の機」 No.5(2021年9月1日)

2021.09.01

2021.9.1

備えあれば憂いなし ~ 困らないように考える ~

本日9月1日は「防災の日」。1923年(大正12年)の同日に発生した関東大震災への戒めとして1960年に制定され、毎年この日にあわせて全国各地では防災訓練が行われています。本校では、今年はコロナ禍であることに配慮し、オンラインによるシミュレーションの形式で教職員の防災訓練が実施されました。(生徒たちの訓練は後日です。)

本校の構内には全部で75本の消火器を設置しています

AEDは4台あります

ところで、この「防災」という言葉ですが、以前から私は少々誤解を生みやすい表現だと感じていました。なぜなら、「防災」を「災害を防ぐ」と受け取ってしまうと、なにやら「災害というのは人知によって防ぐことのできるもの」という誤った解釈となってしまい、自然に対する脅威を軽視することになってしまう恐れがあるような気がするからです。

当たり前のことですが、これほど科学が進歩した現在でも、地震を防ぐことはできませんし、台風の進路を変えることはできません。自然の前で人間が無力であるというのは、いつの時代であっても真理です。ですから、「防災」の本来の意味は、「≪災害≫を防ぐ」のではなく、「不意に襲ってくる≪災難≫から身を守る(防衛する)」と考えるのがふさわしいと思います。つまり「防災」とは、災害は防げないものであるということを前提としたうえで、たとえ災害が起こっても、そのときに慌てたり困ったりしないように備えをしておく、ということなのでしょう。そうした心構えを、古人の言で「備えあれば憂いなし」と伝えています。

以前、私は何かの本で読んだのですが、次のような言葉がたいへん印象に残っています。

「凡人は困ってから考える。賢人は困らないように考える。」

たしかに、私も含めて多くの人は、何か困ったことが起こったときに考え込むことが多いのでしょうが、本来は、本当の意味で困ることのないように、事前に備えをしておくことが肝心なのだということです。

こうした心構えは、日常生活のあらゆる状況に通じるのかもしれません。例えば、以前、私は生徒から、「なぜ毎日教室を掃除するのですか。掃除をするほど汚れていないじゃないですか。」といった、まったくもって至極当然の疑問を素直にぶつけられたことがありました。そのとき、私はその生徒に次のように答えたことを覚えています。

「そうだね。今日の教室はあまり汚れていないようだね。でも、掃除っていうのは汚れてからするものではなくて、汚れないように、つまり清潔さを保つためにするものなんだよ。だから今日もしっかり掃除をしよう!」

そして、その日はいつにも増して、生徒たちは熱心に教室を掃除していたことを懐かしく思い出します。

勉強にも同じことが言えます。試験の前の一夜漬けは論外にしても、日ごろからしっかりと学習習慣をつけ、学力を定着させることで、本当に必要なときに自分の知識を活用することができるのです。備えあれば憂いなし。いざというときに困らないように、日ごろから自分が何をすべきかと考えておくことが、我々にとってとても大切な習慣です。

今日から二学期が始まりました。現在のコロナ禍の状況では、もはや自分だけがコロナと無縁であるという保証はありません。いざというときに困らないように一人ひとりが何をすべきかを考え、これまで以上に感染防止に注意をしながら、今日からまた新たな気持ちで学校生活を送っていきましょう。