「啐啄の機」 No.9(2022年1月8日)

2022.01.08

始業式講話

新年明けましておめでとうございます。令和四年が皆さまにとって良き年になりますことをご祈念申し上げます。

さて、学校は昨日で冬休みが終わり、今日から三学期の始まりです。始業式では生徒たちに、次のような話をしました。

「他人と比較をして劣っていても、決して恥ずることではない。けれども、去年の自分と今年の自分とを比較して、もしも今年が劣っているとしたら、それこそ恥ずべきことである。」

現パナソニックの創業者である松下幸之助氏の言葉です。

生徒たちにとって、学校は〈評価されるところ〉という意識が強いせいか、どうしても自分と周囲を比較し、そこに優劣を感じてしまうことが多いかもしれません。けれども、人には得意不得意があれば個性もありますから(つまりはそれが多様性ですね)、本来は松下氏の言葉のとおり、「他人と比較をして劣っていても、決して恥ずることではない」はずです。

だから本当に私たちが意識すべきなのは、自分自身がどれだけ成長したのかということです。三日坊主という言葉がありますが、年頭にあたって新たな決意をしても、結局は長続きしないということがよくあります。新年を迎えてあらためて去年を振り返ったとき、私たちはいったいどれだけ一年前の自分から成長しているでしょうか?

折しも明後日1月10日は成人の日です。総務省の発表によると、今年は120万人の新成人が誕生し、大人の仲間入りをします。けれども、「大人」の定義が「20歳」という単に年齢上のことであるのなら、そこに違和感はありませんか? しかも少々ややこしいことに、2018年の民法改正によって、今年の4月1日から成人年齢が20歳から18歳に引き下げられます。つまり今年から高校生の成人が誕生するのです。

当たり前のことですが、こうしてみると20歳にしても18歳にしても、年齢というのは単に制度上の区切りを示しているだけで、それを「大人」として認めるべき明確な根拠があるわけではないということに気づきます。もちろん、健康に年を重ねること自体が私たちにとって幸せなことであり、だからこそ「新年」も「成人」も「おめでたいこと」なのですが、時間はだれにとっても平等に過ぎていくもので、たとえ怠けていても年はとります。けれども、年齢にふさわしい判断力や行動力があるかどうかは別のこと、本人の努力が必要なのです。

例えば、富士山のような高い山に登るとき、頂上ばかりを見つめて歩いていても一向に近づいたようには感じられず、うんざりしてしまいます。それよりも、自分の足元を見つめて、着実に一歩一歩を踏み出していれば、いつの間にか頂上に到達しているものです。成長するために大事なのは、歩みを止めないこと、少しでも前に進み続けることです。

君たちは、他人と自分を比較する必要はありません。比べるべきなのは去年の自分自身です。どうか今年は一歩一歩少しずつでも前進し、「去年の自分よりも成長した」と胸を張って言える一年にしてください。


TDUも、今年はさらに進化できるよう努力してまいります。どうかこれからもご支援よろしくお願い申し上げます。

静岡側から望む元日の富士