「校長ブログ」 No.194(2020年12月3日)

2020.12.03

懐かしい昭和の風景 坪内祐三『玉電松原物語』

私が生まれ育ったのは練馬のはずれ、数歩も歩けば武蔵野市という場所です。今でも実家に母が住んでいますが、ご近所は私たちより上の世代の方ばかりで、子どもの姿を見かけることはありません(当節、子どもは外で遊ばないのかもしれませんが…)。東京も急激に高齢化が進むことを象徴するような、静かな住宅街です。

でも、私が小中学生だったころはそうではありませんでした。町の至るところに子どもたちの声がしていました。畑や農家の屋敷森があり、ドラえもんに出てくるような資材置き場のような広場もあって、子どもたちの格好の遊び場でした。三角ベース野球や缶けりや秘密基地作りに興じたり、夏には近くの善福寺公園でカブトムシを捕ったりザリガニ釣りをしたりして一日中遊び回っていました。そうそう、今はきれいに整備されている千川上水も、当時はひどい臭いのドブ川でした。その臭いは今でも鼻の奥に残っています…。公園のように整備はされてはいないが、ある意味自由に遊べた空間は、もはやどこにも存在しません。

もう一つ、現在の町から消えてしまったものがあります。それは商店街です。吉祥寺から大泉学園に向かうバス通り沿いには、吉祥寺に出かけるまでもなく日常生活に必要なものが揃う個人商店が並んでいました。魚屋、八百屋、肉屋、菓子屋、乾物屋に薬局、酒屋に豆腐屋、そば屋に文房具店、そして銭湯。みんな家族経営の小さなお店です。その家の子どもたちとは同級生で遊び仲間であったりすることがあたりまえでした。商店街を通じて町全体が一つの共同体として機能していたように思います。今、それらの商店はものの見事になくなりました。あるのはコンビニと美容室、整体院に歯科医院…。皆さんの住んでいる町も似たようなものではありませんか?

私と同い年で今年1月に急逝された評論家・エッセイストの坪内祐三さんの遺著『玉電松原物語』が10月に刊行されました。坪内さんも私と同じような、東京郊外の住宅地と農地が混在したような世田谷区赤堤(玉電とは現在の東急世田谷線のこと 最寄りは松原駅)で育ちました。この本は、昭和30年代後半から40年代にかけての赤堤の町の表情や人々の日常生活を驚くべき記憶力で活写した、一種の私小説のようなエッセイであり、下町でも山の手でもない、筆者に言わせれば田舎であった世田谷を通じて見た、昭和の、東京郊外の、そして今や新人高齢者になりつつある私たちのような昭和っ子たちの生活史でもあります。

世田谷と聞くと高級住宅街というイメージ(確かにその通りでしょうが…)しかありませんが、坪内さんによれば、彼の通っていた赤堤小学校の隣には牧場があったそうで、これには驚きました。我が故郷も負けず劣らず相当の田舎でしたが、さすがに牛はいなかった!しかし、同じ時代の空気を吸っているから、この本の中に描かれる世田谷区赤堤の生活や当時の小中学生の遊びや趣味的世界は、私にとっても身近なものであり、読んでいると同じ体験をした同級生の手記のような錯覚に陥ってしまいます。あの頃の記憶がどんどん蘇ってきてほんとに懐かしく、あっと言う間に読み終えるとともに、すぐにもう一度読み返した、今年読んだベストの一冊になりました。

坪内さんの別の本を読んでいたら、小学生のころの切手収集の思い出として、渋谷の東急文化会館(現在ヒカリエがある場所にあった)の切手ショップのことが書かれていて、そこには私もしばしば遠征していたので、もしかしたら店先で彼とすれ違っていたかもしれないと思うと、坪内さんを勝手に同志のように感じていましたから、その同志が卒然と逝ってしまったことに、悲しいというか寂しい思いにかられています。

氏のご冥福を祈りたいと思います。

坪内祐三『玉電松原物語』(新潮社 2020年10月刊)