「校長ブログ」 No.186(2020年7月2日)

2020.07.02

『猫を棄てる 父親について語るとき

毎年ノーベル賞受賞者が発表される時期になると、「今年こそは…」と必ず名前が挙がるのが小説家の村上春樹さんですね。村上作品は多くの国で翻訳され海外にもたくさんのファンがいる、現代日本で最も人気のある小説家の一人でしょう。

私自身は村上文学の熱心な読者ではありません。どちらかというと苦手なタイプの作家です。どうして、と言われても明確な理由があるわけではありませんが、たぶん、『羊をめぐる冒険』など初期の作品にチャレンジして、「これは、ちょっと趣味と違うな…」と思ってしまって以来、ずっと食わず嫌いであったというのが真実でしょう。

でも、4月に書店で村上さんの新刊『猫を棄てる』を見かけ、そのタイトルとノスタルジックな雰囲気漂う表紙の絵(絵は台湾出身の高妍さん)に惹かれ、珍しく購入して読み出しました。

村上さんが小学校低学年のころ、どうしてかは覚えていないが、飼っていた猫を箱に入れて父親と一緒に近くの海岸に棄てに行った。逃げるように家に帰ってきたら、棄てたはずの猫が自分たちより先回りして、玄関先で「にゃあ」と愛想良く出迎えた…。この不思議な体験をきっかけに、父親についての回想が綴られていきます。

京都のお寺の生まれである父親も、この猫と同じように幼少時に別のお寺の小僧さんとして(つまり行く行くはその寺の養子として)「棄てられた」経験を持つこと。実家に戻され僧侶としての勉学途上で徴兵されて戦争に従軍したこと。戦場での経験を語ることがなかった父親が、たった一度だけ、自分の属していた部隊が捕虜にした中国兵を処刑したことを、小学生だった作者に語りかけたこと。恐らくは戦場での経験がトラウマとなり、父親のその後の人生に大きな傷と影を与えたこと。そして、自分の思いや気持ちを互いにストレートに語り得ない父と子の間に、20年にも及ぶ不和と絶縁の時代があったこと。

最晩年に和解した父親の亡くなったあと、父親の辿った人生をあらためて振り返る作業を通じて、戦争の時代を生きた一人の日本人の精神の軌跡を紡ぎ出し、その意味を後世の人々に伝えようという作者の思いが詰まった小さな本です。

村上さんの父親が所属した第16師団は、昭和20年フィリピン、レイテ島で玉砕しています。1万数千名の将兵のうち生還者はわずかに600余名。もしもお父さんもレイテまで転戦していたら、有力ノーベル文学賞候補作家はこの世に存在していなかったかもしれない…。さまざまな偶然の積み重ねがあって歴史がある、と気づかされます。

村上春樹著『猫を棄てる』(文藝春秋 2020年4月刊)