「校長ブログ」 No.139(2018年10月1日)

2018.10.01

吉田松陰の『留魂録』

 維新の先駆けとして激動の幕末期を生きた革命家であり、また優れた教育者でもあった吉田松陰は、安政の大獄により幕府に捕縛され、安政6年10月に江戸で刑死しました。
 
 松陰が刑死の前日に門下生に宛てた『留魂録』という遺言書が残されています。その中に彼の死生観を知ることのできる一節があります。

 人間の一生というものは、あたかも農事において春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り、冬はそれを囲っておくという春夏秋冬の循環にも似ているものだ。ひるがえって自分はわずかに三十歳で、一事もなすことなく死のうとしている。稲も生長せず、実もつかずに刈り取られるという状態に似ている。
 
 しかしそれを悲しむことはない。自分について言えば、これも秀実の時である。この身を悲しむ必要はない。人間の寿命は農事における収穫の必ず四季を経なければならないのとは違っている。十歳で死ぬ者には十歳の中に四季がそなわり、二十歳には二十歳の、三十歳には三十歳の自ずからなる四季がある。自分の四季もすでにそなわり実もついたはずである。願わくば、自分の志を受け継いでやってくれる人があれば、その時こそ、後に蒔くことのできる種子が絶えなかったということだ。

(奈良本辰也氏の現代語訳を参考としました)

 人の一生の価値は生きた時間の長さにあるのではない。その人がどれだけ充実した生を過ごし充足感をもってその最後を迎えられるか、そこにこそ人生の価値はある、と松陰は弟子たちに語りかけているのではないでしょうか。死を目前にして少しの迷いや不安も感じさせない、澄み切った境地の中で言い切った言葉に、現代の私たちもまた強く心を動かされる思いがします。

 先日、卒業を前に病魔に冒され命を落とした在校生がいます。彼もまた松陰の如く秀実の時を迎えて黄泉の世界へと旅立ったのだと、私は信じたいと思います。