「校長ブログ」 No.110(2017年11月25日)

2017.11.25

やってみなはれ 伊集院静『琥珀の夢』

 日本を代表する食品企業のサントリーには、自由闊達で失敗を恐れないチャレンジ精神を貴ぶ社風があることで有名です。それを象徴する言葉が「やってみなはれ」です。「やってみなはれ」精神の元祖、創業者の鳥井信治郎の生涯を描いた伝記小説を読みました。

 鳥井信治郎(1879~1962年)は13歳で大阪道修町の薬種問屋に丁稚奉公に出て以来、刻苦精励、人の何倍も努力し身を粉にして働いて20歳で鳥井商店を起業し、当時の日本では未開拓市場であった洋酒造りに邁進します。日本人の味覚に合うよう研究を重ね、独特な宣伝を駆使して商品を売り込み(サントリーの宣伝上手は今に始まったものではなく創業以来の特長です)、そうしてやっと手にしたヒット商品「赤玉ポートワイン」(現在の「赤玉スイートワイン」)。しかし信治郎の挑戦は続きます。赤玉で得た収益すべてをつぎ込んで、本場スコットランド以外ではできないと思われていた本格ウイスキーの製造に打ち込むのです。この辺の事情は、ジャパニーズウイスキー創製のもう一人の立役者、竹鶴政孝(ニッカウヰスキーの創業者)を主人公としたNHK朝ドラ『マッサン』でも描かれています。

 こう書いていくと、この小説が大阪・船場商人の精神と商法を体現した立志伝中の人、鳥井信治郎のど根性物語と思われるかもしれません。しかし、それは信治郎という近代日本を代表する類い希な企業経営者の一面に過ぎないことを本書は教えてくれます。信治郎の商売の根本には、人に知られぬように善行を積む「陰徳」の心、売り手良し、買い手良し、世間良しの「三方良し(利益三分主義)」の考え、そして何より彼の口癖であった「やってみなはれ、やらなわかりまへんで」という常識に囚われない強靱なチャレンジ精神、この3つがあることに気づかされます。たんなる商魂たくましい商売人の奮闘物語だけでは読者は感情移入できません。信治郎の仕事の背後にある高潔な人格、倫理観に感動し、だから清々しい読後感と「明日も頑張ろう!」という元気がもらえるのだと思います。

 連結売上高2兆6千億円の巨大企業に成長したサントリーがどうして株式を上場しないのかも、創業者鳥井信治郎の経営理念を社業の礎として永遠に守っていこうという後継者たち(注1)の思いがあるからでしょう。

 サントリーの緑茶飲料「伊右衛門」も、「社内史上最悪」とまでいわれた大失敗を招いた一人の社員の「このまま負け犬のままで終わってたまるか…」という一念があって生み出されたヒット商品と聞いたことがあります(注2)。「やってみなはれ、やらなわかりまへんで」という信治郎の叱咤激励の声が、彼の耳元にきっと届いていたに違いありません。


※伊集院静著『琥珀の夢』上・下(集英社2017年10月刊)

注1 2代目社長は信治郎の次男、3、4代目は孫で、サントリーは典型的な同族経営です。因みに2代目の佐治敬三氏が父親の果たせなかったビール事業に参入する際、信治郎からは一言「やってみなはれ」と言われたとか…。サントリーのビール事業が黒字に転換したのは、この時から約40年後でした。

注2 野中郁次郎・勝見明著『イノベーションの作法』(日本経済新聞出版社2007年刊)より